幸福者たちの午後                  さきさか ゆきじ 「化けて出てやれ!」  はん! と吐き捨てられた乱暴な文句は、むしろ気持ちが良い。地味なエプロンに派手な柄シャツを着た向 坂さんが、ミルクと砂糖を死ぬほど入れたカフェオレを、ブラックコーヒーを流し込むような苦い顔で飲み干 す。  向坂さんが経営する喫茶店は、半分が花屋だった。店の名前は『喫茶店』。小さな黒板には、下手な字で 「喫茶店へようこそ」と冗談のように書いてある。小学生が黒板に書いた落書きの方が、まだ可愛らしくて救 いがあるだろう。  ちなみに、道路に面した方が花屋になっていて(看板には『花屋』と書いてある)、花を楽しみながら奥で コーヒーや紅茶を飲めるようになっている。そういった粋な計らいをしたのは奥さんのユキコさんで、そうい った粋な計らいをぶち壊しにしているのは旦那さんの向坂さんだ。  「喫茶店」には、僕と向坂さんがいて、空いている席はたったの三つだった。本当は六席あるのだけれど、 行儀の悪い向坂さんが足台にもう一席使っている。 「天才は先を見据えているんだよ」 「それ、さっきも言ったよ」  僕は淹れてもらったコーヒーを受け取ると、まずはくんくんと匂いを嗅いだ。異常なし。次はちょびっと舌 先を水面に触れさせる。槍で突かれたような激痛が舌に広がって、くらりとめまいが起きた。 「向坂さん、今日はハバネロでもいれたの?」 「馬鹿な、コーヒーをつくるのに、コーヒー以外のものをいれると思うのか?」 「じゃあ、どうして向坂さんがコーヒーを淹れると、なにか劇物みたいな味になるのか教えてもらいたいな」  言って、僕はアイスコーヒーを差し出した。不満気に受け取った向坂さんは、一度口を付けると、迷いもせ ずにそばにあったプランターに流し込んだ。 「やめてよ、ヒエンソウが可哀想」 「駄洒落かい。下手くそだね」  無慈悲にも、じゃーっとすべて土に染みこませる。向坂さんはなにやら興味深げにプランターのヒエンソウ をストローで突いた。 「なあ、赤く染色した水を白い花にやると、赤くなるっていう実験、したことあるか?」 「ごめん、僕と向坂さんは世代が違うんだ」 「どんな花の色になると思う?」 「……さあ」  明日中には枯れているだろうな、と僕は思った。アイスコーヒーをかぶったヒエンソウは、世界中の悲劇を 背負ったかのように項垂れている。  僕が向坂さんの店を訪れたのは、小学校四年生の時だった。白いニット帽をかぶった僕は、母さんの背中に 隠れるようにしてこの小さな花屋に足を踏み入れた。  向坂さんは、日本人形のように肌の色が白かった。肌だけではなく、髪も真っ白で、老人なのか若者なのか 見当もつかなかった。お母さんの同級生なのよ、と紹介されて、やっとこの縁側のおじいさんみたいな人が三 十六歳であることを知ったのだ。  似合わないデニムのエプロンには、トラックに轢かれたライオンのようなアップリケがある。これはクマな んだよ、と主張する向坂さんの言葉を、僕も母さんも全然信じなかった。その時から似合わない柄シャツを着 ていて、似合わないサングラスをかけていた。そして、サンダルビーチを履いた、虫嫌いで神経質で口うるさ い、純粋な子どもが四十五度歪んで成長したらこんな大人になるんだろうな、といった感じのおじさんだった。  おじさんじゃない、お兄さんだ、と注意されたけれど、結局おじさんともお兄さんとも呼びはせず、「向坂 さん」と無難な呼び方を、小学生の僕は選んだのだ。  奥さんであるユキコさんに、どうしてあんな変人のプロポーズを受けちゃったの、と聞いたのは、中学生に なったばかりの春だった。  ユキコさんは三十代に見えないほど完璧な美人で、膝より少し上が不自然に途切れている。すらっと伸びた ジーンズからは義足がはみ出していて、緑溢れる花屋に不釣り合いなセラミックが目下に見えたお客は、目を 剥いて驚く。ユキコさんの美貌に見とれて気付かないからだ。気付いたときに、期待を裏切られたかのように 理不尽な顔をする。それを見て向坂さんは、「観覧料とった方がいいと思う?」と、くそまじめに訊ねてくる のだ。  右足の件を差し引いたとしても、やっぱりまるで駄目な大人代表の向坂さんには釣り合わない。 「化ける? 何の話?」  首をかしげたユキコさんが、会話に飛び入り参加してきた。この時間帯はとにかくやることがないので暇な のだろう。僕は紳士らしく席を譲った。 「宮沢賢治のはがきに、一億だと!」  大袈裟に向坂さんが叫んだ。店内にお客さんはいなくてほっとしたけれど、通行人の一人がぎょっとした顔 でこちらを見た。 「ああ、鑑定のやつね。すごいじゃない」 「世の中は不公平だ!」  ユキコさんの大人らしい対応に、向坂さんが大人気ない調子で薄っぺらく嘆いた。 「宮沢賢治は、完成度の高い作品を何作も作り上げていたにもかかわらず、生前はちっとも評価されることな く、没後、世界が彼と同じほどのクオリティを持てた時にやっと認められたんだ。天才は人を先んずるばかり に認められない、なんて悲しいことなんだろう。でも俺にはわかる、同じ天才としてね」 「ユキコさん、全部テレビの受け売りだよ。自分は『銀河鉄道の夜』さえ読んだことないんだから」  ユキコさんに耳打ちすると、わかってるわ、と返ってくる。ああ、これが大人の対応なんだな、と僕は感動 した。 「ねえ、ユキコさん。どうしてこんな人と結婚したの?」  こんな人とはなんだ、と向坂さんが唇を尖らせる。でも僕はそれを無視して、ねえ、と返答を急かした。  「ふふん」ユキコさんはどこか誇らしげに「事故で右足なくなった私に、最低なプロポーズをしたからよ」 と、言った。 「モデルと女優で、あと三十年は食っていけると思ってた矢先に足を切断して、いくら私だって死のうと思っ たの。芸能界に入るために高校だって中退したし、頭悪いから就職先なんてないし。それをこの男は」 「『この男』は君の愛しい旦那さんだよ」 「このだめ男は、なら俺の奥さんになればいいって言ったの。さらりと『俺は君の足より君の顔の方が好きだ から、文句ないよ』って言ってね、こっちの文句は聞く耳ないの」 「この俺にケチをつけるところなんてあるのか?」 「家がほどほどのお金持ちっていうこと以外は、ケチばっかりよね」  僕はうんうんと頷いて、子どものようにふて腐れる向坂さんを笑った。ユキコさんが僕のかぶっている帽子 越しに頭を撫で、手の感触がリアルに伝わってくる。なぜなら、僕の頭には、ほとんど髪がないからだ。  抜毛症、という病気がある。自分の髪の毛を引っこ抜いてしまう病気だ。ちょっと珍しい病気で、その中で も十代から二十代の女性が多いらしい。運悪く、小学生でそういった病気になってしまった僕は、精神科をハ シゴした挙げ句、六年経った今も治っていない。 「カウンセリングっていうのはね、少しばかり知識のあるだけのおばさんがやる金儲けだよ」  と、以前向坂さんが言っていた。僕は初めて向坂さんの意見に頷いた。一時間一万円のカウンセリングを一 年間続け、それでも治らなかった僕を向坂さんに押しつけて、母さんはどこかへ行ってしまった。あれから五 年が経つ。 「人を救おうなんて言うのは、大義名分も甚だしい。結局、お金と権力を一番信頼している人間が、一番わか りやすいんだ」  そういった曲がったことを口にする向坂さんは、やっぱり曲がった人で、ちょっとおかしな病気を抱えた人 だった。向坂さんは滅多に外出しないし、店の中でもサングラスをかける。アルビノ体質といって、目が光に 弱かったり、紫外線を吸収するメラニンが不足しているために皮膚ガンになりやすい病気だという。 「ねえユキコさん、向坂さんと結婚してよかったと思ってる?」  僕が訊ねると、どうかなあ、とユキコさんは唸った。そこは即答するべきだろう、と曲がった人間の向坂さ んが言うと、どうだかなあ、と再び唸った。 「不幸じゃ、ないと思うよ」  それだけを言い切り、ユキコさんは夕飯は何がいい? と訊ねてきた。ああ、大人らしい話の流し方だ。 「カレーでいい?」 「もちろん甘口でな」 「わかってるから、勝手に砂糖入れないでよ。食べられたものじゃないんだから」   「そうしたら、今度はスイカズラに食べさせるか」 「やめてよ、スイカズラが可哀想だよ」 「どんな花の色になると思う?」  くつくつと喉の奥で笑う向坂さんに、知らないよ、と僕は腕をうしろに投げ出した。  たぶん、何かが欠けていることが不幸なら、僕は、きっと不幸で、この人たちも不幸に違いない。でも、枯 れ始めているヒエンソウよりは、あるいは幸福なのかもしれない。  僕はそう思う。