そよ風 彼は”幸せ”というものを感じたことがありませんでした。 一人で長い間、暮らしすぎたからかも知れません。 山奥の小さな家で平穏に暮らしていたからかも知れません。 彼の平穏な生活には、何の感動も、悲しみも、嬉しさもありませんでした。 そんな彼の所に、ある日、遠いところから追っ手を逃れてきた兵士が訪ねてきました。 親切な彼は、傷ついた兵士を事情も聞かずに中に入れて、寝床を用意し、食事を与えてやりました。 すると兵士は泣きながら言うのです。 「ありがたい…ありがたい…私は”幸せ”だ…」 彼はその兵士に”幸せ”とは何かと尋ねました。 兵士は言いました、「温かくて、柔らかいものだ」と。 彼はその兵士の感動に満ちた笑顔が羨ましくて、”幸せ”をどうしても知りたくなりました。 だから彼は”幸せ”を探すために、旅人になりました。 彼が森を歩いていくと、小さな少女が倒れていました。 少女は今にも死にそうな声で「水を…」とだけ喋ったので、彼は持ってきた水を少し少女に飲ませてやりました。少女はなんとか元気になって、旅人に深くお礼を言いました。 そして旅人に尋ねました。 「どうして旅をしているの?」と。 旅人は答えました。 「”幸せ”を探しているんだよ」と。 少女は驚くでもなく、感心するでもなく、不思議そうな顔をしただけでした。 そして旅人にこう言いました。 「どうして探すの?あなたはもう”幸せ”なのに」 旅人は驚いて、「私のどこに”幸せ”があるんだい?」と少女に問いました。 少女は心底羨ましそうな顔をして、 「あなたにはマントがあるわ。さっき私にくれた水も持ってるわ。それに食料も。それってとっても”幸せ”なことよ」 少女の瞳は純真でまっすぐでした。 確かに彼はマントを着ていました。水や食料を持っていることも確かでした。 しかし、そこに兵士の言った”幸せ”を感じることは出来ませんでした。 だから彼は少女に「ありがとう」と一言言い残して、また旅を続けました。 彼はどんどん森を歩いていきました。 すると一人の青年が、あっちをよろよろ、こっちをよろよろと危なっかしく歩いていました。青年は旅人にぶつかると「すみません」と丁寧に頭を下げました。 「私は両目が見えませんので、前がまったく見えないのです」 青年を気の毒に思った彼は、青年の腕を引いてやり、近くの草原に座らせてやりました。 青年はまた丁寧に頭を下げて「ありがとうございました」と旅人に礼を言いました。 そして旅人に尋ねました。 「どうして旅をしているのですか?」と。 旅人は答えました。 「”幸せ”を探しているんです」 そして旅人は青年に問いかけました。 「あなたはどういうことに”幸せ”を感じますか?」 青年はしばらく考えてこう答えました。 「私は、そよ風が吹いてくれることが”幸せ”です」 彼はにっこりと微笑んでいました。 「そよ風が届けてくれる花の匂いが、目の見えない私を花へと導いてくれるからです」 彼は急に立ち上がって、草原に咲いていた花を迷うことなく摘み取りました。 「私の妹は花が好きなのです。持ち帰るととても喜びます」 旅人は目を閉じ、そよ風を感じました。 そして見つけた甘い香りをたどって、花を摘み取りました。 しかし、そこに兵士の言った”幸せ”を感じることは出来ませんでした。 だから彼は青年に「ありがとう」と一言言い残して、また旅を続けました。 旅人はさらに森の奥深くまで歩いていきました。 彼の食料や水は進むにつれてどんどん減ってゆき、マントはすり切れました。 ついに水と食料は底をつき、彼は水を求めて彷徨いました。 そして彼は知らない内に意識を失い、ぱたりと倒れてしまいました。 次に目が覚めたとき、彼は温かいベッドの上で眠っていました。 体中に包帯が巻かれていて、疲労と空腹のために、彼は動けませんでした。 誰かが彼の体を起こし、小さな銀のスプーンを彼の口元に運びました。 スプーンの温かいスープを彼は飲み干しました。 「大丈夫ですか?」 いつかの青年の声がしました。 「死なないで…」 いつかの小さな少女が自分を心配する声も聞こえました。 そして彼は初めて”幸せ”を知ったのです。 それはまるで心の奥底の氷の塊に、誰かが温かいお湯を一滴落としてくれたかのように温かく、まるで洗い立てのシーツのようにふかふかで柔らかく、彼の心を包み込んでくれました。 初めて流した涙が頬の上を伝うと同時に、鼻先を甘い香りのそよ風が掠めてゆきました。